昭和43年6月28日 朝の御理解
「和賀心と我が心」
御理解 第31節
御理解 第32節
昨日の朝の御理解に和賀心と我が心についてお話しを致しましたですね。和賀心、和らぎ賀ぶ心。それから我れの心についての事でございましたね、和らぎ賀ぶ心と、おかげを受けるため和らぎ賀ぶ心を求めて信心すると言う事。それから我が心、これは確信ね、いわゆる信念、神様を信じて疑わないという心。おかげのあるもなきも我が心というのは、この確信。信念をいよいよ強くしていく為に、と言う事でしたね。
今日もやはりそれの延長のよう、まぁちょっとようですけれども、そこん所をですね。この和賀心和らぎ賀ぶ心というものは、これが信心の情操なんです。信心をさせて頂くものの情操、御理解31節32節にね「信心する者は、木の切り株に腰をおろして休んでも、立つ時には礼を言う様な心持ちになれよ。」と、これは中々自分の心が和らぎ賀びでいっぱいの時でなからなければ中々言えないというが、もう忘れてしまうしまっておる、心の中が有り難いときには。
もうそれこそ木の切り株に対してでもお礼が言いたい気がする。だからそういう信心によって頂ける、その情操がいよいよ深い密なものになっていかなければならん。32節にもありますように「女が菜園に出て菜を抜く時に、地を拝んで抜くような心になれば」と仰言る。「木の切り株に腰をおろしても」というのと同じ様な感じが致しますね。「菜園に出て菜を抜く時に地を拝んで抜く様な心になればおかげがある」と、そういう心にお蔭があると、そういう心にはっきりおかげを約束しておられますね。
「またそれを煮て食べる時、神様頂きますと言う様な心あらば、あたることなし。」と、これは女が菜園にとか煮て食べる時という、野菜を頂くときとか煮て食べるときだけの事じゃありませんよね、これは一事が万事の事がそうです。事始めに拝んでさせて貰えるというかね。例えばなら原洋服屋さんであるならば、まずミシンにかかられる前に地をおがんでというようにミシンを拝んで、まあミシンを使われる。
それが出来上がったらそれを本とに自分の力で出来たんじゃない神様のおかげで出来たとして、それを有り難く合掌して頂くと言う様な事にも通じましょうねえ。そういう情操がね、段々ほんとにこう自分の身に付いてしまうものになてこなきゃならん。そこでまあそうではなくてもそこに心掛けておく、まあ例えば皆さんが自動車で、自転車でやってみえます。乗るときにも拝む、降りたときにもお礼を言う様な心持ち。
なかなかその忘れがち、それでもその矢張り形の上だけでもよいから拝み、又はお礼をゆうというようなで脛、心持ち。そういう心持ちが自然の中に培われてくる。情操が段々、私しは和賀心とはそういう心だと思うですね、和らぎ賀ぶ心というのは。「今月今日で一心に頼め おかげは和賀心にある」と仰せられる、そのそういう和らぎ賀ぶ心、一切を合掌して受けれる心、又は一切にお礼を言はにゃおれない心、そういう心が和らぎ賀ぶ心なんですよね。
いわゆる昨日の御理解でゆうなら和賀心の方なんです、和・賀・心の方なんです。そこで今日は、そのうもうひとつの和賀心ね、確信、昨日はそこん所を信念とか確信とか、不動のもの、神様を信じて疑わないというように表現いたしましたですね。道の教えの大綱、道教えの大綱の一番最後の所に御神誡として、御神訓とある神訓と書いてある、そこの道教えの大綱というのが御座いましょう。そこの一番最後の所。
「天地のことは人の眼をもて知りて知りがたきものぞ 恐るべし恐るべし。」とありますね。今日はここん所の新解釈というかね、ここん所を頂くんです。昨日の夜の我が心に通づるね、人の眼をもて知りて知りがたきものと仰言っておるのですから。これはね、私共がこの肉眼をもっては分からないことなんですね、ですから信心する者は「肉眼を置いて心眼を開けと仰る。この目こおの肉眼の目を置いて、この目をつぶって心の目をもって見てみよということになる、その為には心眼を開かなければならない。
今日はあのその、天地はあのその人の眼をもて知りて知りがたきものぞ恐るべし恐るべしという、これは全然あのう、この御教と似て似つかぬような感じで頂いているんですよね、ですから。人のまなこをもっては知り難いのである、けれども私共が心の眼を開かせてもろうたら段々分かってくる。それはそうでしょうが、私共が難儀と思っていたものがね、難儀ではなくて、もうほんとに神様がお蔭を下さろうとする神愛の現れであったと分かるとするならば、それはもう大変なことですよね。
今まで難儀と思うておったことが有り難い事になって来るんですから。今までは何と腹が立つことだろうか、何とはがゆいことだろうかと思っていたことが、それこそ随気の涙を流してお礼を申し上げることに変わるのですから、肉眼と心眼とそんなに違うのですよね。そこでその、人のまなこをもて知りて知り難きものぞと、ここでは恐るべし恐るべしと、いはばここではね、今日はこれは恐ろしいことだという意味ではないのです。それこそそこん所が分かったらね。
もう恐ろしいまでのおかげになって来ると言う事なんです。天地のことは分からん、人間の眼をもっては分からん、人間の知恵力では分からん、どんなに科学が発達しても分からん、けれども私共がね信心して心の眼を頂かしてもらうとね。その天地の事が隅々まで分からんにしてもです、少しずつ分かって来る。これがもう一生かけての信心の楽しみだと私は思うですね
私共が知り得ていると言う事なんかほんとにそれこそ僅かなこと、これは私が肉眼をおいて心眼を開いているにいたしましてもですよ、まあだまあだ分からん世界の方がどれだけ多いか分からん、これは私が何時も私が申しています通りです。だからそういう世界にね、私共一歩足を踏み入れる所から本当の信心の有り難さというものが分かって来る。人のまなこをもっては知りて知り難きものだけれども、心の眼をもってすれば知りて知り難き所が分からして貰える様になるぞと。
その先にはねそれこそね。恐ろしいまでのおかげになって来る、こりゃはもうおかげになる事分かっておりますよね、そうでしょ今まで困った事だと思っておった、それが有り難い事だと分かるのですから、何と情けない事だと思っておったことがです、それこそ随気の涙を流して、神様がこんなにまでしておかげを下さろうとしておると言うのですからね。このへんの所に昨日の確信という問題に触れてくるのですね
例えば、なら私の病気なら病気ということですね、例えばなら私が長年足が立たなかったと。そういう時でもその、どういう事に成って来たかというとですね、いはゆる肉眼を置いて心眼を開かせて頂いておりますから、これがね、これは難儀なことではないことだけが分かっているんです、私にはね。足が立たんようになったと、足が萎えてしもうたと、さあどうしょうかと、普通でなら、肉眼で見たらそうなんです。
ところが私が心の眼をもってするとです、これは決して困ったことではないのだ、神様のご都合だと分かった、どういうご都合だと分かったか、もう神様がお蔭を下さろうとするご都合なんです。そう確信しておるから足が萎えておってもしんぱいすることはないでしょうが。肉眼と心眼というたらそんなに違ってくるです。そこでその確信がどういう事になってくるかというと、さあ今日お月次祭だ今日はどうだという時だけはピタッと足が動きよったでしょう。
成程神様のご都合に間違いはないという確信がいよいよ強い物になってきた、これは医者やら薬やらという事の段じゃない、例えばそう言う事をすることはね、返って神様に対して御無礼になる。そうでしょうが。私がそれば、なこれを医者にかかって治療すると言う事は、神様がお蔭下さろうとしての、この働きを受けてることをです。神様のご都合なのだから、そのご都合のはっきり分かっておることは、神様がお蔭をより下さろうとするご都合以外にないのだと確信できるのです。
そしたら其のことが、例えば成程成程と。例えば私が足が動かんでおらなければ出来ないことがその前後にして色々あったことが、皆さんご承知の通りです。第一の問題は私が足が動きよったら、私は絶対学院に行かなければいかなかったんです一年間。まだそれだけのこっちゃありません、まだまだ沢山、それは分かり得ただけでも、まあだ分かり得ない事は沢山まだございました。糖尿病だって同じことです、私、昨日2、3日風邪を引いていると言う事でも同じことなんです。
私今度の風邪についてでも、糖尿病と言う事にななってから、糖尿病という病気は色んな病気が併発したら、その病気がもう治りにくいというのが糖尿病の患うておる者のこれはもう、もう一つの定めのようなものね。腎臓が悪かったらもう治療のしようがない、かぜをひいたら中々それがこじれてから治らない。これがそうらしいんですね。そこで私は神様に此のことだけはお願いしたんです。
神様そう言う事を聞いておりましたから、例え私は糖尿病でありましても、風邪だけはね今度は早くよくなして頂かんと、私は今日の御理解からね、私の確信をいよいよ確信たらしめためる為におかげ頂きたいというて私は昨日お願いした。私は昼の4時の御祈念をさして頂くのが境でございましたんですね、鼻が出らんようになった、咳が出らんようになったのは、しかも頭がスッキリして、今日はもう鼻もでません、あんまり少しでるぐらい。というようにですね。
はあ糖尿病でもおかげさえ頂きゃ、よくなるんだなという確信ができたね、新たに。と言う様にですね人のまなこをもって知りて知り難きものでも心の分をもってすると、それが段々分かって来る、天地のことでも。それが段々分かって来るようになったらそれは大変なことになって来る、恐るべし恐るべしです。恐ろしいまでのおかげになってくるです。そりゃ恐ろしいまでのおかげになって来るはずですよね。
今まで泣きの涙でくやみよったとが泣きの涙でお礼申しあげるようなごとなってくるとじゃから、おかげ頂かんはずがないです。今まで腹が立ちよったとが、反対にお礼申し上げる心が生まれてくるとですから、おかげ頂かんはずがない。私は今教祖が、この身しのぎをするようになれと仰言る事ですね、身しのぎの信心ということを仰る。身しのぎというのはね、私昨日ある方の結婚の問題をお取次させてもらった、右か左かお伺いされたんです。その方は熱心に信心ができる。
そしたら御神意頂いたらですね、教えてくださらんのですよ、良いの悪いのも。そして頂くのがですね、『沖のかもめに潮時聞けば私しゃ立つ鳥 波に聞け』という、これは何か歌の文句ですよね、神様にお伺いしたらですね、『私しゃ立つ鳥だから知るもんか』と、こう言われる。だから波に聞けとこう仰言る。これはね、この人がもう段々おかげを頂いて来たからこう仰言るのですよ、何も分からん人がお伺いしてきたらすぐ教えて下さる。言うは神様は立つ鳥なんです。
いうなら「私に聞いても分かるもんか、私しゃ立つ鳥だ波に聞け」とこう、波と言う事はね自然に聞けと言う事、成り行きに聞けと言う事。話を聞いてみるとです、もうこれはおかげと思わなおられん程のですね働きがずうっとあって来ておるです、だからもうお伺いする事がいろうかと、こげな神様の働きを頂いておるじゃないかと言う事なんです。ははあこれはほんとに身しのぎというのは私はこう言う事だと思うたです。
皆さんでも、もうここにお参っている50名なら50名の方達は、もうまず身しのぎができなきゃ嘘です。合楽の教会に毎日朝参りしておるというぐらいな人ならです、もう身しのぎが出来なければだめです、というくらいに絶えず神様を頂いておかなければいけないという事です。一つのことをお伺いをさせて頂いてです、いわゆる鳥に聞くよりもね、その成り行きそのものに聞けと言う事、自然のその働きそのものに聞けと言う事、そこにはもう答えがちゃんと出ているじゃないか。
どんなに考えても夢にも思わなかった様な話です、とてもほんとにその話の順序というものがです、何と神様の働きて素晴らしいことねと言わにゃん程に、その私しゃ後先の事情がです、だからもう良いの悪いのて聞く必要ないじゃないかて、これだけのおかげを受けておる、という意味だったと私は思うんです。してみると皆さん、いよいよの時にはお伺いしなきゃならんに致しましてもです、そこん所は皆さん見極めていきよんなさるでしょうが、成り行きを大事にしながら。
だからもう何時も絶えず神様にですね、ものを問うことができるんです。そういう稽古をなさらなきゃでけんです。昨日もあの高橋さんが、あの自分の商品、あの海苔の場のことに付いてのお伺いがあったんですけど、私はそん時、まあその場に行ってからね、その時の成り行きで答えをだしなさいと私は申しました。右左決めずにね、あんたがその現場に行ってから、そこの成り行きがねちゃんと、成り行きが神様が示して下さるですよって、そこであんたも答えを出しなさい。
これはもうその位の身しのぎは出来るだろうがという意味なんです。いわゆるもう、立つ鳥に聞かずにね、波に聞けと私が言ったんです。これが段々出来るようになってですね、お蔭を頂いたら、これはそれこそ恐るべし恐るべしと言う様に、もうあぁあという間にお蔭が頂けるでしょう。だから皆さん信心の稽古というのはそこなんですよね、だからそういう稽古がなされていかないけん。
そこでです、そういう何時も神様を絶えず私の心の中に頂いて行くと、何時でも神様にお伺いがでけると、何時も自然が私にものを言いかけてくれていると、何時も成り行きが私に話しかけておると言う事がです、何時もこれに聞き取れておるような状態をだから願わなければならんと言う事になりますね。昨日私は4時の御祈念に出て参りました。ちょと10分ばかり前に出て来た、だからここのサッシの戸の廊下の戸を全部明け放って御祈念しょうと思って、障子を開けた、こう開けた。
皆さんは用心なさらなければいけません開けるときに、あれは2番目の戸はスーと自分で行くです引いたら。それもんだからその戸と戸の間に手をはさんだ、もうこら此の紅さしの爪がまだ青じんでいる、これをはさんだ、もうそれこそ目から火が出るちゃ。まあだ風邪でぐずぐずしてやっとこっと起きてきとうとこですよね。それでもうすぐあの手洗いの所に行ってから水につけましたら、もううずきましてね。
そしてもう4時の時間になったからそのまま、御祈念さして頂きましたけれども、それこそ風邪でどうもどうもはっきりしない気持ちで御神前に出ろうとしておる私にですね、神様がハットいうごたる目から火が出るような思いをさせてからでも心の中にですね生き生きしたものを作らせて下さった事だけは事実です、ね。もうほんとに4時の御祈念が有り難い有り難い御祈念ができた。
ほんとにそれを境でした、私の風邪がスキッしたのは、それから此処に4、5人お参りしあわせておりましたから又ここで私は、もうすぐ寝るつもりじゃったけれども、もう寝ることいらんです。あのねえ神様と交流すると言う事はそんな事なんですよ。だから皆さんここに思わないかん事は、私でもんならぼんやりしている時もありゃ、心がですね重くてですね神様に向けない様な時もあると言う事なんだ。
昨日私、午前中奉仕している時にも、1時の御祈念の後に、御神誡を、十二箇条あります、その十二箇条の御神誡を新しい角度から毎日頂いていますよね、あれはもう即席なんです、もう即興的な御理解ですよね。私が、皆さん御祈念をしておられる間にお蔭いただくのですから、本とに素晴らしい事だと思うんです。今日からは真の道の信心の心得の所になって来ますから、これが二十箇条ですかね。
段々日を追ってこれを一箇条ずつ頂いていかなならんが、しかしどんなに考えてもね御理解をもうゆうならばあらゆる角度から頂き尽くしているわけですよね、この百八十何箇条という御理解というものは。ですからほんとにこれはおかげいただかなければね、これはただ表面に文字に現れておる事をただ言うたけでは御理解が御理解にならんしね、皆さんも頂きながら初めて頂くという御理解を頂いてこそ、初めて又深さに触れて行くことになるのだから。
ほんとにこれは大変な事だけれども私共としても実は十二箇条だけはこうしてようやく頂きすませたもののですね、あしたからの事がちょっと心のもとないという感じがちょっとしたんですよ。そしたらね神様が教えて下さるのにね、『朝顔がね、朝顔のツルがこう伸びている所』を頂いた、朝顔のツルがあの自分で動いているようにあるですねあれは、風が吹くたんびにこう伸びてあれは日に日に伸びている訳ですねあれは、そして何かちょっとでも触るものがあったら。
しがみつくものがあったらそっから又伸びていくんですよね、いはば私共の信心というものがですね、何時も日に日に生き生きとですね、生き生きとした信心が出来て、ゆうなら朝顔の花に朝露がおりておるすがすがしさというかね、新鮮なああいう信心が何時も心の中に出来ておったらね、もう限りなくこうしがみついて行く事が出来ると言う事なんです。だからこれはお蔭も同じことですよ御理解だけじゃないです。
おかげでも皆さんの心が枯れておったらおかげにしがみつく、ここにおかげがあっても此れにしがみつく事ができんです。ですから心が信心に神様に向こうて何時も生き生きとしとらなければいけんと言う事です。朝顔のツルのように生き生きと伸びておらなければ行けないと言う事。そしてそこにおかげならおかげの木なら木があるとそれにすがって昇っていけれる。いかに信心がね、この斬新な心の状態というものが求められるかと言う事が分かりますね。
昨日の昼の実意丁寧の化け物のような信心が、もう今の金光教の中にはうようよしとる、と言った様な御理解頂いたですが本当にそうですよね。どんなに形だけ実意丁寧にへいこらへいこら言うとおたっちゃですよ、生きたお蔭も表せず生きた喜びも心の中に頂けなかったら、そりゃだめですね、実意丁寧の化け物です。ですからなら私共が絶えずですね、そういう心が停滞しておったり心が枯れ果てたようになっておる時はです、神様に願いすがっていかなければならん。
そすればそこから神様がです、昨日私のようにです、痛い思いをさせたけれどもですシャンとさせて下さるです。そこに求められるのが、だから修行です。水ごりのひとつもとらせて頂くと心が生き生きとして来るです。そういう例えば心にね。おかげをキャッチしていけれる心の状態というものがいただけれるのです。今日は私が天地のことは人の眼をもて知りて知り難きものぞという所を、ただそれだけ頂いておったんですけれども、これは人のまなこではない。
心眼をもってすれば知りて知り難きことはない、それはもう大変なことですからね天地の事といやあ、けれどもそれがすこしずつでも分かって行くと言う事、いうならば自分の目先の問題の事だけでも分かって行くと言う事、自分の目先の問題だけでも分かる。難儀と思うていたことが難儀でないと分かって行くわけなんだね。心眼をもってすると。だからそこからはです、それこそ恐ろしきまでのお蔭が展開して来ることは間違いのないことなんです。そこからいよいよ我が心ね。
昨日の朝頂いた和、賀、心、ではないこころ、いわゆる確信の心、がそのようにして培われていく、そのようにして我が心がいよいよ確固たるものになって行くわけなんです。同時に私共がです、信心さして頂く者の情操。それは例えばですね有り難いこころが湧かんでもです、有り難い有り難い真似でもしょうとですね、それこそ嘘から出た真というてですね、有り難うなってくるから不思議です。
ですから自動車を拝む心がなかってもです、まず拝んでみらにゃいけん、降りたらばまずお礼を申し上げる心にならにゃいかん、そすと心からお礼の出てくる。いわゆる嘘から出た真ですよ。だからそこん所を精進をしなければいけない、女が菜園にでて菜を抜くときに神様頂きますと大地を拝んで抜く様な心と、いう心。または木の切り株に腰をおろしても立つ時には礼を言うような心持ち。これも私は信じの情操だと思いますね、しかもそれを和、賀、心、と申しましたね、和らぎ賀ぶ心だと。
和らぎ賀ぶ心もいよいよ追及して行く、其のためには喜びの心がなかってもそういう稽古が、一切合切を拝んで行く、そういう稽古が必要であるという事ね。自分のはいてきた靴にでもお礼を言はないかん、拭く時にはお願いしなければいかん、俺が靴俺がはくといったことではでけん。そういう稽古なんだ、そこからね、ははあ和賀心とは和、賀、心、とはこういう心であろうかというような心がいただけて来るようにもなるのです。そういう和賀心に表れて来る所のおかげ。
同時に我が心に表れて来る所のおかげ、確信を持った心に、いわゆる神は信ずる者を信ずると仰せられる信ずるところから生まれて来る所のお蔭。そういう心を頂く為の努力とか精進ということが、今も申しましたようにですね、私共が絶えずそうした生き生きした心を求めてやまん、そこに修行がもとめられる。
天地のことは確かに人間の眼をもては知りて知り難きものだけれども、私共の心の眼をもってするとそれが少しずつでも分かっていけれる。そこに身しのぎができれる稽古をさしてもらう、それこそ立つ鳥に聞かずに波に聞かしてもらえばいいのである。その波が打ちよっても波があっても自然の働きがそこにありよっても、自分の心が神様から遠のいておるとです、ここで神様がささやきよんなさってもささやきが聞こえてこない。そんな事申しましたですね。
ですから絶えず自分の心が神様に向かって、しかも生き生きとしておると言う事をもとめての信心。いうならば寝ても覚めても神様が心から外れなさらんと言う様なおかげを頂かなければいけんどうぞ私は例えば、朝の御祈念でもお参りされる皆さんは皆、一応ですね身しのぎが出来れる、だいたい出来なければ嘘だと、出来んにしても、なら身しのぎの稽古をしなければいけない。早速自分の心がね、神様に向かっておるときにはね、もう些細な事でもそれが神の姿神の声に聞こえて来る。
そのいわば波にね、その自然の働きについていったらいいのです。そこに何時も生き生きとした神様のですね、神様がもう周囲に躍動ござるのですから、その躍動してござる神様を私共の信心の躍動というかね信心の歓喜とでも申しましょうか、そういう心でそれを頂きとめていく稽古。ところが中々私共の心が場合によっては真っ赤に枯れ果てたように心になってしまうでしょう。
だからそういう時になおざりにせずに、そういう時にはひと修行させて貰う、と言う様な気持ちにならして頂きますとです。草花のしおれた草花を根を叩いて水につけますと又そこからこう水を吸い上げるようにね、私共の心を少し叩いてみると、そこから神様の願いというか、お恵というかそういうものを吸い上げることが出来て生き生きとして来る。そして例えば風邪なら風邪がです、手のひらを返すように全快に向いていると言う様なおかげにもなって来る訳なんです。
まあ昨日から今日にかけてね、私そういう体験と同時に、昨日から私体験さして頂いた事ばっかり、その事を私あのうこの教典を開かして頂いたら今の御理解の情操と言う事に付いて頂いた二つの御理解とね、それから今の人間のまなこをもって知りがたしという、あの御神訓ですね、しかもあの恐るべし恐るべしというのは怖い怖いと言う事ではないと言う事。恐ろしいまでのおかげになってくると言う事を頂いたんです。
どうぞ。